川崎 圓融寺
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圓融寺の縁起

法性山圓融寺の起源

開山 天文3年(1534年)
池上本門寺9世東照院日純聖人※1
本尊 曼荼羅
釋迦座像(第13世・日慈開眼)は昭和20年戦災により焼失
祖師像 日蓮聖人説法像
旧本寺 池上本門寺

※1
大坊本行寺所蔵の文化財のひとつに日蓮聖人坐像(大田区指定有形文化財)がある。 坐高56,7㎝、木像寄木造り、彩色、玉眼。 胎内腹部に「武州立花之郡稲毛之庄渋口郷施主尾曽川忠盛(花押)仏師鎌倉伊与守」と墨書銘があるが、記年はない。 渋口郷は現在の川崎市高津区子母口で、この地の旧家小(尾)曾川氏(現石川氏)は同所の日蓮宗圓融寺の檀越で、同寺の墓域には同氏の先祖の五輪塔などがいまも残されている。 圓融寺の開山は池上本門寺9世日純(1482~1550)で、 大坊本行寺から栄進した僧である。おそらく小曽川氏との信仰関係が深かったに違いないと推察される。 本像は、圓融寺が開創されたと伝えられる天文3年(1534)=この年の12月大坊も焼失=からそう時代を経ない中世の作品と考えられ鎌倉仏師の作風を示す日蓮像としても注目されよう。(大田区教育委員会)

大田区寺院案内 大坊本行寺大田区池上ホームページから参照

当山はもと真言宗の寺であったが、その住職の正善坊と 日純上人とが問答をした結果、日蓮宗に改宗したと伝えられている。※2
当山は過去に数回焼失したらしく、近世においては文化初年に記載された過去帳により判明した。
その後、昭和20年4月の大空襲により全山がほとんどが消失し、かろうじで過去帳のみが焼失を免れた。※3
本堂再建は檀信徒一同の並々ならぬ努力により昭和25年完工、昭和43年には庫裏を新築、昭和51年、平成元年、平成6年に増改築された。
平成8年には境内隣接地を購入し、所有山林を新規墓地に造成、さらに庫裏を新築した。
平成10年には現在の出入り口である土地を川崎市から購入した。
平成13年に旧墓地南面がけ防護擁壁工事を行った。
平成19年に本堂建設資金に充当するため新規墓所を本堂西側に造成した。
平成23年7月新本堂完工。

※2
新編武蔵風土記稿(1810年起稿 1830年完成武蔵国の地誌) によれば圓融寺について次のように記載されている。

村ノ中央ヨリ末申ノ間 字下ノ寺ト云所ニアリ法性山ト號ス日蓮宗ニテ池上本門寺ノ末 開山ハ日純上人と云天文五年(㊟天文19年が正当と思われる)三月二十一日寂ス 本尊八釈迦坐像ニテ長一尺八寸ハカリ 作詳ナラス 客殿七間二六間東向ナリ 古ヘコノ寺ハ修験者ニテ正善坊トイヘリ 前ニノスル蓮乗院ノ境内ニアル不動堂ノ不動八此寺ノ修験タリシ時ノモノナリトイヒ傅フ 今モ不動免ト云 田字朝日前ノ内ニアリ 此説ウケカタシ 開山上人ハ天文年中ニ卒セシ人ナリトイヘハ此寺修験タリシハ夫ヨリマタ前ノコトカ サレト寛永ノ頃ノ舊記ニ修験正善坊トアレハ ハルカニ後ノコトナリ 尤モウタカウヘシ

上の寺・蓮乗院の開山は寛文12年(1672年)であり、問答に敗れた正善坊がそれまで圓融寺にあった不動尊を上の寺に持ち逃げたというのは130年以上も開きが有り、風土記の記述のとおりおかしい。しかし、檀家が数十軒であった当時、このような話が風土記の完成まで300年近くも言い伝えられていることは興味深い。

※3
昭和20年4月15日の真夜中、ついに子母口も敵機の餌食となってしまいました。 空襲警報の無気味なサイレンの響きの後、間もなく西方から侵入したB29の大編隊は次々と爆弾・焼夷弾の雨を降らし、15日午後11時半ごろ、まず火の手は旭前の圓融寺(当時、川崎の川中島国民学校の教師・生徒が約40名余り集団疎開していました)他3軒から上がり、それからその線上を東へ植之台の蓮乗寺が爆弾で吹き飛び、(略)、次いで根方の森武三さんほか2軒もほとんど同時に燃え上がり、地元の消防団の必死の消火活動も、人手不足と、被災地が広範囲のため思うようにならず、ついに皆全燃してしまいました。

川崎市発行 川崎空襲・戦災の記録 子母口伊東いよ様手記から抜粋